昭和41年06月03日 夜の御理解



 今日お昼をすました、してすぐの時分でした。まぁこの、吉田先生がご信者さんを同伴でやって参りました。本当に、その何時も先生の話しを聞いてから有り難いなぁと思うんですけれども。先生、本当私は椛目に御神縁を頂いたと云う事が、もう本当に有り難い。もう私が、ここの先生の真似さえしとれば、おかげを頂くちゅてから。真似さえしときゃおかげを頂くと云う事ですねぇ。それがその、まぁ本当に私が言うた事を素直に、その一言か二言かまあ守り貫いておられる訳で御座いましょうけれども。
 もう、朝の御祈念の御神前に出ると、ここの先生がご神前の座に付かれてから、私のくせなんです。ちょっとこぉあつかう。そこのところを必ず頂くそれを頂くと、頂く日には必ず二人か三人か新しい信者が参って来るちゅ言うんです。私はこの頃、ちょっとショックでしたと。この頃あの、ご信者さんを沢山連れてから、自家用車十台で参って参りました。丁度十、四、五日前だったでしょうか。その時に私が、もう本当に吉田先生が信心は良いけれど、あんたの信心はちょっと病的だもんねと。
 私は確かに言うたんです。ところがそれがもうそのショックだったと言う。どこがオレの信心は病的であると言わっしゃるじゃろうかと。一週間そのことがづぅっと頭の中から離れなかった。もう晩もその事でわざわざご神前に座ってから「神様私の病的なところを教えて下さい」と言うちから、一生懸命そのお縋りをさせて頂いた。そうしたら一週間目の朝方お夢を頂いておられる。それがですねその山登りをしておる。山の頂上に丁度まあこの茶席というか茶室というか、風のそのまぁ風雅な家がある。
 姿は見えんのだけれども、あそこに椛目の親先生があの家に御座ると云う事らしい。それを目指して、その一生懸命登ったと。始めの間は何でも無かったんですけども、中腹頃になって来た所がえらいそのものすごい風が吹いて来た。もう、しかも横の木がですね、吹き倒れんばかり、こんなになってその吹くんだそうです。それでも、あそこには親先生が御座るから、親先生が御座る所まではと思うてから、その倒れる様な木を潜りながら、又は、跨りながらその頂上まで行った。
 でその家の側に行ったところがです、あのう熊本の吉田で御座いますち言うてから、「お入り」と、先生の何時もの声でおっしゃった。で、その障子に手をかけたところがです、その障子がですね、何とその大きな障子がはまっているんですけれども、全然骨が無い、障子の。とにかく広いその紙がはってあるけれども、それがその風で、少し汚れているけれども、破れると云う様な感じでもない。こう触って見たけれども、その押したけん破れると云う様な紙でもない。
 ほれが気持ちの悪うなってから、その先生がお入りと仰ったけれども少しばっかり開けて、その先生の姿はとうとうその分からんなりに目が覚めたとこう言う。私は信心を進めさせて頂く上にはこれが一番大事だと思う。吉田先生が言う例えば私の真似でも良い。そこに一つの繋がりというものが必ず出来るのだ。あぁ本当に椛目の親先生は何時もこうさっしゃるもんなと。思いながらその思いがもう私と通う。私と通う事が、金光大神に通う。金光大神に通う事が、天地乃親神様に通わん筈が無いね。
  同時に皆さんもご承知の様に、大体はそのああした何十年という経歴を持った教会。しかも、親教会は甘木の教会だけれども、本当に先生、私が今親と思うとるのは、椛目の先生ですけんで、その積りで、ち言うちから。まぁ何時もその本当か嘘かは知らんけれどもそう言われる。まんざら、嘘ではなさそうにある。中々利口な先生ですから、半分を嘘にしましても、おかげを受けておるという事実があるから、やっぱりその嘘でもなかろうとこう思うんですよね。
 とにかく人間が確かに病的なところがあるけれども、可愛らしい病的なんです。だからあんたの病的はなあおそらく一生治らん病的だろうけれども、そこが大体あんたはその愛嬌のあるとこだもんね。と今日も話したことですけども。それで良いでしょうか。そのお知らせはどんなお知らせでしょうかと言うてから、今日言われるから私は申しました。信心は山登りと同しとおっしゃる、山登りなんだと。決して楽なことはない。けれども矢張りだんだ山登りをさせて頂くというそういう信心だったら、自分の思い方見方、視野が広がって来る必ずね。
 若い人達が矢張りその、暑かろうが寒かろうが山、山と言うて登る様にね。あのきつか後にというけども山登りには、山登りの味わいというか楽しみというのがあってから、登る様にです。信心の山登りも同じ事なんだ。けれどもです、途中でです。もう本当に吹き倒されんじゃろうかというて、木がこんなに、その倒れ掛る様にして、風が吹いている下を潜る様にして行ったと言う所がえらかった。木というのは、木は心というから、あんたの心を吹き飛ばす様な事が途中ではあったもんね、と私は言うた。
 今でもあってるというのは、吉田先生はどうもおかしいばい。ありゃ二心、親教会あちらへまだ椛目にも参りござるげな。そして、熊本の青年教師をその足で、導いて参って来る、どころじゃない。信者を引きつれて、今日も信者さんを連れて参って来ておりましたが、信者さんを連れてから参って来る。それでもう、そりゃもう轟々たる非難がやっぱあるそうです。その為に、あちらの熊本の教務所から、ここに泣いて、ある先生が来た様な事すらあった。
 けど問題は助からんならんね。自分を助けて下さるのは、椛目だからと思うて参って来る。どんなに言わば、その風雪の様な風雪というか、その大風の様なですね。自分の木です。自分の心をです、もう吹き倒れるごたる言わば、中でも矢張りこう通り抜けて、登り抜いて来ておると云う事が、信心にはどうでも必要なんだ。もうこげん人がとやこう言うならこげな批判があるならばというて、そこでへこたれる様な事ではおかげにならん。そしていよいよ、その頂上の先生の御座る所へまぁ、着いた。
 そこんとこをいっちょう、神様に一生懸命お願いをして吉田先生。中へ入って、私とお話しさせて頂いたと言う所まで、おかげ頂かにゃいかんばい。本当言うたらね、私とあんたの中には、そりゃ成程親でもなからにゃ子でも無い。と言うて始めからあんたがここで修行した訳でもないね。だから何とはなしに、私もあなたの信心にはまあ何かしらんけれども、何時も私は言う事ですけえども、あぁ良か信心するなぁと私は思う。あんたも親と言いよるばってん、ならそげん本当の親んごたる事は無かろうがね。
 言うならば、肌と肌がこぉ、触り合う様な信心。ここから温もりを感じあう様な信心。そこまで行かにゃ、椛目の信心は本当にゃ分からんよと私は申しましたんです。その大体この障子の、この骨のないとはどう云う事じゃろうか。それは、まぁ私の信心じゃろうなと私は申しました。成程信心にはね、土性ぼねが要ります。根性が要る。根性無しには信心は出来ません。
 けれども、段々信心を進めて参りますとです、言うならどうでも良いと言った様なものが生まれて来る、心の中に。私の事をあのう久留米の佐田さんが神様からお知らせを頂いておる。椛目の親先生ばっかりは、瓢箪鯰のごたる人だと言いよるお夢じゃった、お知らせ。つかみ所が無い、深いやら浅いやらね、几帳面やろくそなかやらね。優しいとやら、厳しいとやらいっちょん分からん。つかみ所が無い。
 これには私のですね、その土性ぼねの信心か、土性ぼねという骨が無くなった所に、私がまぁ言うならばですね、それがそうと言う訳じゃあなかろうけれども、神と一体と言う所があるんだと。もう、神と一つなんだと、言うならば。骨が無いのだ。瓢箪鯰なんだ。ですから、どうでもよい。はぁ、人がやあやあ言うてから、教会の看板、教師のどうのと言うけども、どうでも良いこっちは。
 教師の資格も貰わんでもええ、教会の看板かけんでもええ。問題は、人が助かりさえすりゃあ、いいちゃもん。これが、まぁ言うなら私の信心を神様が、表現して下さったんだろう。紙は神に通じるのだろう。だから、あんたの信心はもう一段進ませて頂いて、中へ入らせて頂いて。そして、言うならばそこで先生と会うたと言うところまで行ったら、それはおかげじゃっただろうけれども。まぁここまででも、しかしよう来たと、言うて話した事で御座いますけれども。
 この吉田先生が信心の一つの態度というか。同時にそのお知らせを頂いておるその事柄というものがです、信心には、そう云う様な所が必要であると。恥の様でも何でも無いね。それこそ吹き折れりゃせんじゃろうかと云う様な風にもあうけれどもです、そこを私はあとへ下山するのではなくて、結局そこを上に登らせて頂いて頂上を極める。頂上を極める頃にはもうそれこそ、広々とした所がこう見える様にもなるだろう。
 視野が広うなる心が広うなる。豊かになるものの見方が変わって来る、考え方が変わって来る。そこに本当の信心の幸せがあると同時にです、本当の神徳と云う様なものはですね、本当に神徳と云う様なものは言わばもう骨の無いもの。こうすりゃこっちも転がり、こっちゃんでん転ぶと言った様な感じね。もうそこでは、土性ぼねも無い。土性ぼねすら無い。言うならば、瓢箪鯰の様なもんだとつかみどころが無い。
 私はここで修行をする人達に言うんですね。私のここはと言う所があったら掴んでみい。いうならば、そのまぁ私に打ち込む隙があったら、いっちょう打ち込んで来い。はぁこういう今隙があるごたる時に、打ち込んで見るが良い。果たし、私がそれで、そのやられるかどうかね。と言う風に、皆に申します様にです、ね。もうそこにはです、隙を作らんで済む信心。勿論破れもしないね。
 私は今日、ある事でおかげを頂いた事がある。もう本当に言うなら、とんでもない悪徳家だ、もうこれはもう普通の人じゃどうにもしようが無い。悪徳家ちゅうのがおるです。私は、あの徳者という中にはね、神徳家とか人徳家とか言うけれど、悪徳家ちゅうのは今日始めて頂いた。ありゃあ、悪徳です。極悪人なんか、悪徳なんです。嘘でも平気で詐欺でもする様な、人間はこりゃあ悪徳家。悪の徳をを持っておる。
 本当、私はそれを今日頂いて、始めてだから、こういうものにはね、もうとにかく、悪徳には悪徳の徳を持って、しなければダメだと神様から頂いた。私が徳を頂いとる訳じゃないけれども、私は本当に神様のお徳にお縋りして、この人と合った。所が、本当にそこにおかげ頂いた。そういうそのまぁ悪徳家でもです、いうなら神様の徳の前には、矢張りひれ伏さなければいけん様なおかげを頂いて来た。徳には徳を持ってと神様がおっしゃる。その悪徳と云う事を今日私は初めて頂いた。
 それにはです、例えていうならば、お互いが信心をさせて頂く、目指すというのは、身に徳を受けてと仰る。  神徳というものは、誰でもが受けれる。信心すれば誰でもが受けられる。みてると云う事が無い。しかもあの世にも持っていければ、この世にも残しておけると仰る。おかげを目指すとじゃない。本当にひとつお徳を受けなければいけん。吉田先生じゃあないですけれども、そういう一つの信心の歩みというものが、始めの間は何でも無いけれど、その風にも雨にもめげない心。
 そして登って行く所に、そこには徳の世界がある。しかもその徳の世界にもです、そうした自分というものを空しゅうした。本当に任せ切った、おじけ付かない中へ進んで行けれるおかげを頂かせてもらえる時に、神と一体となれれるお徳ね。御神徳というのは、もう神と一体になった姿。そう云う様な物があるのだと云う事を私は感じたんです。皆さんが、信心のどこを通っておられるか知らん。
 まだ風も何も吹きょらんかもしれん。本当に今こそ修行。今こそ、風のとこだと云う様なとこを通りよんなさるかも知れん。そこで、ぐつぐつする事無しにです。その木を折る事なし、心を折る事無しにここんところを一つ貫かせて貰うて。頂上を極めなければならん。頂上を極めたならば、神様というならば、握手が出来る所まで、信心を進めて行かなければならん。そこから御神徳というものは頂けるのじゃなかろうかと思うね。
   どうぞ